2018.04.18

今朝は寒かったですね…。そして週末は、暑くなるようです…。下の子の大事な試合があるのですが、暑さに弱い子たちなので、ちょっと心配です…(-_-;) みなさんも体調を崩さないように、お気を付けください!

今日は久しぶりに、羽仁もと子先生の言葉を紹介します。「先生はどこにでも」です。羽仁もと子著作集『子供読本』の中の一節ですが、「皆さんは花を見ると、ああきれいだなあと思って、写生してみたくなるでしょう。その時に花は皆さんの絵の先生です。花でも動物でも、ときどき私たちの先生にさえなってくれるのですから、人はすべてのものを大切に思わなくてはなりません。」

牧師は「先生」と呼ばれることが多いです。牧師になりたての頃は「先生」と呼ばれるのが気恥しかったですが、慣れとは恐ろしいもので、今は「先生」と呼ばれることに何の抵抗もおぼえません。しかし、「花でも動物でも先生になってくれる。」「すべてのものが先生となるべき存在である」との指摘にハッとさせられました。他を大事にする心。他を尊敬する心。すべてのものが先生となるべき存在であることを心に覚えて接すること。そういう「心」に気付かされました。今まで、他の人や物を見て「すばらしいなぁ」、「きれいだなぁ」と思うことはあっても、先生というような思いまでは抱いていませんでした。知らない内に傲慢になっていたのかもしれません。「あの人はあの人、わたしはわたし」という思いが強いのかもしれません。花に見とれることはあっても、それを写生しよう、スマホで撮ろうという気持ちにはなりません。やはり、傲慢であったのだと思います。

自分が謙遜にならないと、すべてのものに「先生」という気持ちは抱けません。本来牧師は謙遜であるべき存在です。神という絶対者を知り、この超越した神に仕える仕事ですから、いつでも謙遜であるべき存在です。しかしその謙遜さが失われていたと改めて思いました。慣れからくる神さまとの関係の崩れを聖書は語っていますが、まさに自分にそれが起こっていたと気付きました。

 

でも、気づいてよかった! もう一度自分の有り方を見つめて、初心に戻って新年度を歩み始めたいと思います。