2023.06.22

先日の特別礼拝は、とても充実したひと時となりました。ご準備くださった齋藤先生に、また参加してくださった方々に感謝の気持ちを伝えたいです。

礼拝では、コリントの信徒への手紙二5章から御言葉が語られました。特に516以下の「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」という言葉に惹かれ、「新しくなりたい」「違う自分になりたい」という思いをもって教会に行かれたこと。しかし520後半の「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」との言葉が最大のハードルであったと言われました。それは、齋藤先生にとっては、神さまは恐ろしい方だったからです。ご本人の言葉を借りれば「神というのは、冷酷で、無慈悲で、自分で創造しておきながら、自分の気に入らない人間はすぐ殺すし、子どもには辛くあたって自由を与えてくれないしで、全く信用ならない存在」だったようです。嫌いな人と仲直りすることはほぼほぼ不可能なように、神と和解すること自体が無理な話だと思われたようです。

「愛されていない」という子ども時からの思いが、神の愛を分からなくさせていると考えた先生は「神の愛をわたしに分かるように示してください」と断食し、祈ったそうです。三日目の夜「温かく柔らかい光に包まれて、白い衣を着たイエスの腕にぎゅうっと抱きしめられ…『わたしはあなたを愛している』というメッセージを、わたしの細胞の一つ一つにしみわたるまで伝えられて、わたしは生まれて初めて愛される安心感を体験することができた」。その時「神は愛なり」という聖書の言葉を「腹の底から実感することができた」そうです。

「神と和解させていただきなさい」との言葉は「神の和解を受け入れなさい」とも訳される言葉です。こちらが努力して和解させていただくのではなく、神の方が先に「わたしはあなたを愛している。わたしと仲直りしてくれないか」と手を差し出してくださっている。その手をわたしは握り返し、和解を受け取った。ここから新しい生き方に導かれていったと言われました。

 

「神さまとの和解」が、信仰生活の根底にあることを改めて知らされました。わたしは「神さまに愛されている」ことにあまり疑問をもったことがなかったので、逆に「和解」の出来事を軽く見ていたことに気づきました。先に神が愛し、赦してくださっていること、仲直りしようと手を差し出していることをきちんと伝えなければならないと感じました。新たな視点を与えられたことに感謝です。

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