使命に向かって       2024.03.17

 

 マルコによる福音書15:1~20 

 イ ザ ヤ 書  50:4~9

 

 今日主イエスは、ローマの総督ポンテオ・ピラトのもとに連れて行かれました。ユダヤ人自治区の最高決議機関で死刑とされましたが、当時ユダヤ人には死刑の執行権がありませんでした。ユダヤを支配しているローマ帝国にのみ死刑の執行権があったので、祭司長たちは主イエスをピラトに引き渡しました。

ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねます。ユダヤ人たちが「主イエスは自分をユダヤ人の王と称して民衆を惑わし、ローマ帝国に反逆させようとした」とピラトに訴えたためです。これに対し主は、「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。祭司長たちはいろいろと主イエスを訴えますが、主はそれ以上何もお答えになりません。その姿をピラトは不思議に思いました。そして、人々の要求があれば、囚人の一人を釈放する慣習があったので、群衆はいつものようにしてほしいと要求しました。ピラトは「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と尋ねました。それは、主が引き渡されたのは、祭司長や律法学者たちのねたみのためであったことを知っていたからです。群衆の思いはどうなのか、ピラトは確認しようと思いました。しかし、祭司長たちは人殺しをしたバラバを釈放するようにと群衆を扇動しました。そこで群衆はピラトに、バラバを釈放するよう求めました。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか。」そう尋ねると、「十字架につけろ」と群衆は叫びます。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」ピラトは群衆に向かって叫びますが、群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫び立てました。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放し、主イエスを鞭打った後、十字架につけるために引き渡しました。兵士たちは、総督官邸の中に主イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めました。そして、主に紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めました。何度も葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりもしました。思う存分主を侮辱した後、元の服を着せ、十字架につけるために、外に引き出しました。

ピラトは、主イエスがねたみのために引き渡されたのであって、罪を犯していないことを知っていました。本来十字架刑は、ローマ帝国に反逆した者に執行される極刑でした。ユダヤ人内部の争いであれば適用できない刑であり、今回も筋から言えば適用できません。しかし、ピラトは群衆を満足させようと思いました。総督にとっては、ユダヤ人自治区での騒動は自分の責任になります。群衆が暴動を起こしたとなれば、自分がローマの皇帝から責任を問われることになります。ピラトは奴隷から出世した人と言われていて、自分の地位や名誉に固執した人物だったそうです。歴史的には、紀元26年から36年までの10年間在職し、反ユダヤ人的な考えの持ち主だったそうです。当時の手紙には、「買収、暴行、略奪、虐待、挑発、裁判手続きなしの絶え間ない処刑、意のままの最もひどい残虐行為」が日常茶飯事であったというようなことが書かれています。しかし、ピラトの後ろ盾であった人物が紀元31年に失脚し、ピラトも窮地に陥ったため、ユダヤ人の歓心を買おうとするようになったようです。自分を守るために、簡単に方針を変えてしまう。上から評価されたい、今のポジションを維持したい、あまり面倒を起こしてほしくない。そういった思いが、本来の筋や正論を上回りました。筋から言えば、主が無罪であると分かっているなら、それをユダヤ人に伝え、主イエスを釈放すべきでした。反逆罪が適用できない人に、十字架刑を執行することも間違っています。ピラトの中でも葛藤があったのかもしれませんが、勝ったのは、自分を守りたいという気持ちでした。群衆を満足させ、今の地位を継続できるなら、主の命なんて軽いものでした。ナザレのイエスというよく分からない人物一人を処刑することで、ユダヤ人が満足し、自分も平穏でいられるならその方がよっぽどいいと判断しました。これは、罪ある人間の姿です。

兵士たちは、犯罪人となった主イエスを徹底的に侮辱しました。犯罪人は人とは見なされなくなりますので、思いつく限りの悪事を重ねました。これは、現在も起こっている人間の現実です。収容された人への残虐な行為やずさんな扱い。社会的な立場が低い者への威圧的な態度など、同じ人間であっても立場が違うことで態度がガラッと変わる。立場が違う者を尊重したり、受け入れたりすることがいかに難しいか。聖書の時代には人権という考え方がないので、公に犯罪人や社会的立場の弱い人は、ひどい扱いをされましたが、現代も、人権侵害や人格無視などが日常的に起こっていることを思います。そしてこれも、罪ある人間の姿です。聖書は人間を罪深い者として描きます。誰一人、神の前に正しい人はおらず、みんなが罪を犯しています。祭司長、ピラト、群衆といった具体的な人間を描きつつ、罪は共通のものであり、みんながもっているもの。今福音書を聞く私たちも例外なく、罪をもっていることを告げ知らせていきます。

同時に、その罪を償うという使命に向かって歩むイエス・キリストの姿を描きます。今日最初にお読みしたイザヤ書50章は、「苦難の僕の詩」の一つです。イザヤ書に全部で4つあり、どれも主イエスを指し示す詩として理解されています。イザヤ書50章では、主なる神が弟子としての舌を与え、朝毎に言葉を呼び覚ましてくださると告げます。預言者が主の言葉を語ることができるのは、神が言葉を与えられるからです。その人の内に神の言葉があるのではなく、常に新たに神から与えられるから、神の言葉を語ることができます。しかも、神が耳を開かれるから、神の言葉を聞くことができます。こうして整えられて、苦難の僕は務めを果たしていきます。敵に対して、逆らわず、退かない。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせます。また顔を隠さずに、嘲りと唾を受けました。どうして、このような苦難に立ち向かうことができたのか。それは、主なる神が助けてくださるからです。主は苦難の僕の正しさを認めてくださるから、たとえ人間が訴えてもそれは無効である。神が正しいと認めてくだされば、誰も自分を罪に定めることはできない。この助けがあったから、苦難の僕は使命に向かって進むことができました。

主イエスにとって、唯一の支えであったのは、父なる神の存在です。弟子たちはみんな逃げ、群衆は主イエスの敵となりました。誰一人支えになる人も、助けてくれる人もいませんが、ただ父なる神だけはすべてを見て知っておられます。主イエスが罪を償うために嘲りを受け、十字架にかかられること。主イエスの命が人間の罪を贖い、人間に本当の救いを与えることを知っており、それが神の御心であるから、主の歩み良しとされています。人間となられた主イエスは、私たちと同じ弱さをおもちです。恐怖や不安を感じ、死ぬばかりに悲しくなられます。「この杯をわたしから取りのけてください」と3度も祈られました。しかし、主は十字架に向かって進まれました。主イエスを使命に向かわせたのは、父なる神の支えがあったからです。神が助けてくださると思えたので、つらい使命に立ち向かっていくことができました。

 

私たちがキリスト者として生きていくことは、主イエスの後を追っていくことです。主イエスほどの苦しみを受けることはありませんが、それでも苦しみや困難が立ちはだかります。自分ではどうすることもできないような窮地に立たされることもあります。その時に、私たちを支えるのは神さまです。神さまは、独り子イエスを送り、十字架の死を遂げさせました。それは、私たちの罪を赦し、私たちと共に生きるためです。主の十字架のおかげで、私たちは神のものとなり、神がいつも味方となってくださいました。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」そうパウロが語るように、一番強い方が私たちの味方です。主はマタイによる福音書1028でこう言われます。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」聖霊に満たされたペトロは、脅しを受ける中で「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」と答え、神に従い続けました。使徒言行録529です。弱さを抱える私たちですが、神が私たちを助けてくださいます。神が味方であることを改めて心に刻みたいと思います。そして、神に生かされている者として、主イエスの御足の跡を歩んでいきたいと願います。

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