2024.03.24

 

 マルコによる福音書15:21~41  

 詩   編    22:2~9

 

 今日主イエスは、十字架につけられ、息を引き取られました。教会の暦では「受難日」「Good Friday」と呼ばれる日の出来事です。

 主は夜通しの裁判と鞭打ちや暴行のため、十字架の横木を担ぐ力がありませんでした。十字架刑に処せられる者は、自分の十字架の横木を担いでゴルゴタまで登ったと言われています。徹底的に痛めつける刑であったことが分かりますが、主は担いで歩く力がなかったので、通りかかったアレクサンドロとルフォスの父キレネ人シモンが代わりに担ぐことになりました。キレネ人シモン、また息子たちアレクサンドロとルフォスと詳しく述べられているのは、この3人が後に主の弟子となって教会に連なったからです。たまたま通りかかったために主イエスの十字架を背負うことになったけれども、それがシモンを信仰へと導きました。

シモンが見た主イエスは、十字架を担ぐ力がないほど弱り果てていました。ゴルゴタと呼ばれる場所に着くと、兵士たちは痛みを和らげる没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしましたが、主はお受けになりませんでした。そして、兵士たちは主を十字架につけました。それは朝の9時でした。罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあり、他に二人の強盗が十字架につけられました。ゴルゴタに3本の十字架が立ちました。そこを通りかかった人たちは、主イエスをののしって言いました。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」祭司長や律法学者も代わる代わる主を侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」十字架につけられた強盗たちも、同じように主イエスをののしりました。

昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。3時に主は大声で叫ばれます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。居合わせた人々はこれを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言い、ある者は酸いぶどう酒を含ませた海綿を主に飲ませようとし、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いましたが、主は大声を出して息を引き取られました。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架の側に立っていた百人隊長はこれを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。主イエスに従ってきた婦人たちも、遠くから見守っていました。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメ。この3人は主イエスがお墓に葬られるところも見て、安息日が明けてすぐにお墓に向かった人たちです。そして最初に、主の復活を知らされました。

今日の御言葉が告げることは、主イエスが旧約聖書で約束された救いを果たされたということです。昼の12時に全地が暗くなったことは、アモスの預言の実現です。アモス書89以下「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに変え、独り子を亡くしたような悲しみを与える。」神がこの世界を裁かれる日、真昼に太陽が沈み、人々は悲しみにくれる。苦悩に満ちた最期を迎えると告げます。

また、主を十字架につけた兵士たちが、誰が何を取るかをくじ引きで決めてから主の服を分け合ったことは、詩編の成就です。今日最初にお読みした詩編22は、マルコによる福音書と深い関係にあります。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は、詩編222の言葉です。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」そして続けて、「なぜわたしを遠く離れ救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」このように訴え、詩人は神が自分から離れ、見捨てられたと呻きます。詩人が苦しんでいるのは、みんなから嘲られているからです。227以下「わたしは虫けら、とても人とはいえない。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。』」主イエスをあざけった人たちの言葉そのものです。そして、2217以下「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」この詩編の言葉が、今日起こっています。

神がこの世界を裁かれる時、それは絶望の日、悲しみの日です。詩編22の詩人が絶望的な言葉を語ったように、神から捨てられ、人からも捨てられて、人はまったくの孤独の中におかれます。どこにも助けがない。自分一人で苦しみを引き受けなくてはならない。これが絶望です。そして、神の子イエスが、私たちの代わりに絶望を引き受けてくださった。神の裁きを一身に受け、唯一頼りにしていた父なる神から見捨てられた。また、弟子たちは逃げ、自分の周りにいる群衆、祭司長たち、一緒に十字架刑についている者たちさえも自分を嘲り、ののしる。絶望的な状態におかれている、それが主の十字架でした。しかしこの十字架の死が、私たちに本当の救いを与えます。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、神と私たちを隔てていた幕は取り除かれました。神と私たちを隔てていた罪が償われることで、神と共に生きるという新しい生が始まりました。また、主が味わわれた孤独は、一番深いものでした。だからこそ、どんな人間の孤独にも主は寄り添うことができます。主が経験されなかった苦しみや痛みはありませんでした。だから、私たちが経験する苦しみや孤独を主は分かってくださり、共にいて、支えられます。さらに主イエスは、今日、息を引き取られました。死んで、その後お墓に葬られます。私たちは死ぬべき存在で、その死は誰も代わることができません。たとえ家族が看取ってくれたとしても、死ぬのはわたし一人です。しかし、この死の際にも主イエスは共におられます。唯一死んでよみがえられたお方だから、死の床にも共にいてくださり、死んだ後も私たちと共にいて、神の国まで導いてくださいます。詩編234「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」そして詩編236「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」この言葉が実現しました。

 

主イエス・キリストが与える救いは、罪を赦し、神と共に生きる命を与えることです。罪がある限り、私たちは神と共に生きることはできません。しかしその罪を、十字架の血によって、主イエスがいけにえとして命をささげることで償われました。罪が償われたから、私たちは神と共に生きる者となりました。しかも、主イエスは私たちの弱さや痛みを御存じで、必要な助けと力を与えられます。常に寄り添ってくださる方が、救い主イエス・キリストです。そして、寄り添いつつ、自分に従うよう招きます。主イエスの代わりに十字架を担いだキレネ人シモンは、主を信じる者となりました。百人隊長は異邦人で、主イエスとは無関係に生きてきた人でしたが、十字架刑に関わることになり、主イエスの死にざまを見て、「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。ずっと主に従ってきた婦人たちは、十字架につけられた主を遠くから見守り、死んでからも絶望することなくお墓にまでついて行きました。隠れた形ですが、主に従い続けています。主イエスの死は、私たちを悲しみに突き落とすのではなく、むしろ立ち上がる力を与えます。従わせる力をもっています。それは、他ならない私たちのための十字架の死だからです。神が一方的に罪を赦し、新しい命を与えられました。私たちは無意識であっても、神が私たちのところに来て共にいてくださるから、不思議と力が与えられ、従い続けることができます。主が私たちと共にいて、支えてくださっている。この真実を心に感じたいと思います。受難週の時こそ、主が共におられることを信じ、主に従っていくとの決意を新たにしたいと願います。

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